とつくづく思った今回の震災。いろいろな人のいろいろな意見をいろいろな場面で目にしましたが、正直「それってありがた迷惑なんじゃね?」って思うようなことも善意の一言で片付けられてしまっているような気もします。いや、何もしないよりはしたほうが良いんでしょう。人を思いやる気持ちは素晴らしいです。でも、ひとまず一歩引いて考えて、相手が本当にそれを必要としているかどうかを考えるのも、思いやりじゃない?
友人が行政の立場からの支援を(某県庁勤め)ぽつぽつとまとめてくれていますが、それを読むにつけ、統制されていない個人の思いこみでの支援など、正直なところ義援金以外は所詮「素人考えである」と思わざるを得ません。
たとえばユニクロの「新品の衣料で型落ちしたものを4億円分送る」とか、Gacktが行政に確認を取ってきちんと現地に迷惑をかけないだけの足を確保し、40トン分の支援物資(主に食料)を送る、なんかは、多人数に行き渡り、しかも現地に迷惑をかけず、ありがたいと思われる支援でしょう。でも、たとえば私たちがカップ麺を30個送ろうとかはどうでしょう?それは物流の燃料を占有したあと、何人の人に行き渡るんでしょうか?思い立って行くボランティアはどうでしょう?燃料が現地で尽き、現地の燃料を奪うなどもってのほかです。自分の食料も現地にまったく頼らないだけ持って行けるでしょうか?
もし上記の支援ができるとすれば、企業の大規模な支援物資か、行政同士の支援か、自衛隊以外は無理です。現地の負担に全くならない方法と手段を持っていて、現地と必要なものを確認しあえて、物流の手だても持っている人たちの支援でなければ、現地では「気持ちは嬉しいけど使えず廃棄するゴミ」にしかなりません。そして、廃棄をするのにも、それを取っておくのにもお金がかかるのです。今、処分場などがろくに機能していない現地にそれを負担させることが、果たして支援でしょうか?
少し落ち着いたあとなら、片付けのボランティアを募る団体もあるかもしれません。また、古着市を開催してくれるような慈善企業もあるでしょう。そういう時に、求められたものを送るのが私たち一般人にできる支援だと思います。たとえば労働力、たとえば手元にあるけど使わないもの。相手が欲しいと言わないのに勝手に送りつけるのは単なる傲慢です。どちらかというと世話焼きでいろいろ持ってくるけど正直どれも使えないイヤな姑のイヤゲモノと同じです。「良かれと思って」送ったものが「全く役に立たない」かもしれないことは、ちょっとだけ考えた方が良いです。(あ、うちの姑はそんなイヤゲモノ持ってきたりしませんよ念のためw)
被災者は乞食ではありません。被災はしたけど、これからまた新しい生活を立て直していく人たちです。
自分の娘や息子、親戚がたとえば火事で焼け出されて、古着をおくる人っているでしょうか? ないよりある方がマシだろうって、使いさしのボールペンを送ったりするでしょうか? 使っていないタオルなんかは助かるかもしれません。でも、普通はお見舞い金、送りません? ものを送るなら、新品を送ってあげるんじゃないでしょうかね? もし私が被災者だったら、正直気持ちは嬉しいけど使い古しをもらっても困る。いくら生活に困ってても趣味もあるし。特に身につけるものは誰が着たか分からないものより、ユニクロでもセイユーオリジナルブランドでも新品の方が嬉しい。
私は、私たちができる支援は義援金が一番だと思ってます。長く置いても腐らない。今後の行政の備えにも使える。家も建つ。食料にもなる。服も買える。生活用品も買える。燃料も買える。不足しているものに隙間なく余りなくぴったり使えます。また、置き場所にも困らない、ってことは、倉庫代もかかりません。送るための物流の燃料も使用しません。貨幣制度バンザイですよ。良かったね銀行で数字送るだけで支援になって。
義援金も別に無理しなくて良いと思います。生きていればみんな税金払ってて、その税金で買われて各自治体に備蓄されていた災害用の食料や毛布が、ちゃんと自治体の税金で足を確保し、燃料を使って現地に届けられてるそうです。働いて、遊んで、そんな経済活動を回すことでも立派に支援になってるって事です。
あまり気張らず、相手にも負担にならない善意を送りませんか。自己満足は、善意ではないです。
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